日本の地質百選に選ばれたジオスポット。三波川帯の変成岩類が露出し、岩畳や変形小構造が見られる。
明治44年には鉄道が開通。多くの地質関係者が秩父を訪れた。盛岡高等農林学校(現 岩手大学農学部)の生徒であった宮沢賢治は、上長瀞の荒川左岸の「虎岩」を「つくづくと 粋なもやうの博多帯 荒川ぎしの片岩のいろ」と詠みました。
大正3年に大宮町(現 秩父市)まで鉄道が延びたが、賢治が訪れたころ、金崎にはそれまでの終点だった国神駅が残っていた。賢治一行は駅近くの「梅乃屋」(現在は営業していない)に泊まったと伝えられる。上流の栗谷瀬橋付近には蛇紋岩地帯があり、地盤が弱いため鉄道は先に進めず、上長瀞で線路は大きく迂回して荒川を渡った。
6~7世紀に造られた古墳群(昭和51年3月30日 埼玉県指定史跡)があり、石室には結晶片岩の板石や割石が使われている。対岸には世界で初めて報告された紅簾石片岩の露頭がある。
日本の地質百選に選ばれたジオスポット。「太陽の当たる崖」という意味からこの名が付けられたという。秩父盆地の新第三紀の地層が見える巨大な崖である。下流の取方や小坂下では海底地すべりを語る地層の褶曲(スランピング)が見られる。
「おがの化石館」のわきには、宮沢賢治の「さわやかに 半月かかる薄明の 秩父の峡の かへり道かな」と一学年下の保坂嘉内の「この山は 小鹿野の町も見えずして 太古の層に白百合の咲く」の歌碑がある。
平成23年1月 故田隝保氏(寿旅館当主)の日記から「大正5年9月4日 盛岡高等農林学校生徒職員一行25人宿泊す。」「9月5日 生徒一行の石をも送る。」の記述が見つかった。
小鹿野町役場前に「山峡の、町の土蔵の、うすうすと、夕もやに暮れ、われらもだせり」歌碑がある。大正5年9月5日の小鹿野郵便局の消印のある、保坂嘉内宛ての葉書に書かれた9首の短歌の中の一首の「山かひの 町の土蔵のうすうすと 夕もやに暮れ われら歌えい」を後年変更して校友会会報第32号に発表したものである。
賢治の泊まった宿は、小鹿野町観光交流館「宮沢賢治宿泊の宿」として平成23年の秋オープンした。郷土ギャラリーには、宮沢賢治関係の資料が展示されている。
「9月4日 三田川村皆本沢へ向かい・・・」(寿旅館当主の日記より)。
秩父盆地の西の端、小鹿野町三山小金沢の赤平川左岸に新第三紀の地層と山中地溝帯の地層の境(不整合)がある。皆本沢はその上流にあり、山中地溝帯の地層を横断するように刻まれ、白亜紀の地層を観察できる良い場所である。賢治一行は中生代白亜紀の地層を見学に行ったと考えられる。
賢治が訪れたころ(1916)まだこの地域の研究は始まったばかりで、大塚専一の研究(1887)をもとに原田豊吉が「山中地溝帯」の名称を提唱(1890)してまもないころである。
「9月4日 明日は三峰山。」(寿旅館当主の日記より)。
小鹿野町より小森川ぞいをたどると荒川の谷にいたる。三峰口駅は昭和5年開業、賢治が訪れたころまだ鉄道はなかった。ここより上流は「秩父帯」である。切り立ったV字谷となり石灰岩やチャートが露出している。
かつて「秩父古生層」(原田豊吉。1888)と名づけられたが、現在は中生代ジュラ紀に付加された地層とされるようになった。狭い谷筋をたどり強石から大達原へ抜ける旧道に石灰岩の手掘りのトンネルがある。川沿いの県道(国道140号線)は大正10年開通なので、賢治一行はこのトンネルを通ったにちがいない。
三峯神社から妙法ヶ岳につらなる山稜より西の地域は白亜紀に付加された「四万十帯」の地層である。大洞川沿いには境界の断層がある。
「あはあはと 浮かびいでたる 朝の雲 われらが馬車の 行く手のやまに」。9月6日、三峯神社より馬車にて秩父市へ向かう。途中、影森の鍾乳洞に立ちよる。
鍾乳洞は武甲山の石灰岩の西の端にあたる。竪穴の鍾乳洞は珍しく、札所28番橋立堂の胎内くぐりのの場所として古くから多くの人が訪れている。