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モデルコース

札所31番観音院の磨崖仏
札所31番観音院の磨崖仏

ちちぶ国造りの道・国神コース

手軽に歩けるウォーキングコースです。

①皆野橋記念碑

昭和10年に架けられた延長105m幅員5.5mの橋。架橋以前の往来には「碑」の西側の「大浜の渡し」が使われた。

碑の裏面には「早くこせこせ大浜船渡 皆野通ひがおそくなる 大田時から恋知りそめて 思ひかけ橋皆野橋」という、金子伊昔紅の唄が刻まれている。

前原の不整合

②前原の不整合

前原の不整合は秩父盆地の形成を知るための重要な露頭です。崖の左下の黒い岩石が秩父帯の粘板岩などで、およそ1億5000万年前の地層、そしてその上に重なる白っぽい岩石が、秩父盆地を構成する約1千5百万年前の地層です。主に石英や長石にとむアルコース質で、下部は礫岩になっています。礫の種類は、秩父帯のチャートや砂岩で、この近くに分布する岩石です。礫の間を埋めているのはアルコースです。このように、不整合面の直上にある礫岩は基底礫岩と呼ばれ、侵食の場から堆積の場に転じた最初の堆積物です。

この不整合は、いったん海底に堆積したジュラ紀の地層が、地殻変動により隆起し、陸上で風化浸食されたのちに再び沈降し、その上に新第三紀層の地層が堆積したことを物語っています。

不整合とは、年代の大きく異なる地層が重なっていることを示す語で、それらの地層の境界線を不整合面といいます。

金室氏館跡

③金室氏館跡

江戸時代の大淵村の名主を代々勤めた家である。慶長8年(1603)荒川と赤平川の合流点に「材木改所」が設置され、野巻村と大淵村の名主2人が改所役人に任命された。

④「青木與市殉職之地」の碑

長生荘前の道路脇。明治17年11月3日加藤織平は長楽寺に陣を構えていた。翌4日、日野沢方面を偵察して帰って来た飯塚森蔵の一隊を警官隊と誤認して、困民党の中に動揺が起こった。その時、1日の吉田の戦いで捕虜になっていた青木與市巡査は、チャンス到来とばかりに新井周三郎に切り付けたが、周三郎は重傷にもめげず青木巡査に大刀を突き立てたとのことである。

國神神社

⑤國神神社

元は「琴平神社」で古くは金毘羅神社(こんぴらじんじゃ)と称した。現在の社殿は明治34年に造営されたが、この社殿の彫刻は素晴らしいものである。明治40年金崎上郷(現在の国神)の各社を合祀して、社号を國神神社と改称した。

大イチョウ・姫イチョウ

⑥大イチョウ・姫イチョウ

知知夫彦命の墳墓と言われる塚を「国神塚」と呼び、この塚の上にイチョウが植えられたという話が伝えられている。また、塚には「妙見社」も祀られている。

⑦長言寺

ぽっくり観音の寺。

⑧上武鉄道(秩父鉄道)金崎駅

波久礼駅~金崎駅間が明治44年9月14日開通。駅前には「梅乃屋旅館」があり、大正5年には地質巡検のため秩父を訪れた宮沢賢治が宿泊している。当時、金崎駅は大宮町、小鹿野町方面への乗合馬車の発着点であった。

「霧はれぬ分かれて乗れる三台のガタ馬車の屋根は光り行くかな」 宮沢賢治

紅簾石片岩
紅簾石片岩

⑨紅簾石片岩

親鼻橋際に露出するこの紅簾石片岩とは変成鉱物の一種である紅簾石を含む珪質片岩です。紅簾石片岩の原岩はチャートなどの珪質堆積岩で、紅簾石石英片岩とも呼ばれていますが、小藤文次郎が明治21年に世界で最初に新鉱物として紅簾石を報告しました。

この露頭でもう一つの見所のポットホール(甌穴)は、河床の岩石の割れ目や節理に石が入り込み、川の水の力によって石が回転し、穴が掘られたと考えられています。このポットホールは今現在の荒川の河床面から10m程上位にあるので、ホールが形成されてから10mほど大地が隆起したことになります。これは長瀞地域が隆起していることを示す貴重な証拠です。このように長瀞では大地の隆起と、荒川の下刻侵食のバランスが保たれているので、三波川変成岩が地表に露出することになりました。

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