白川橋から上流を見ると、急峻なV字谷になっています。ここから上流は奥秩父山地となり、日本列島の背骨をつくる地質体であるジュラ紀(約2億年~約1.5億年前)の秩父帯と、白亜紀(約1億年~約6600万年前)の四万十帯が広がっています。秩父帯と四万十帯は、房総半島から関東山地、赤石山脈、紀伊山地、四国山地、九州山地を経て沖縄本島まで、長さ1800kmにわたって帯状に分布しています。
下流には広い川原が見られ、両岸に河成段丘の平坦面が広がっているのがわかります。ここから下流は、約1700万年~約1500万年前(新生代新第三紀)にあった古秩父湾に堆積した軟らかい泥岩・砂岩・礫岩の地層が分布しています。
そして、今から約50万年前以降には、大地の隆起に伴い荒川の流れが大地を削って河成段丘が形成され、現在の秩父盆地が形作られました。
江戸時代、上流の中津川や大血川沿いの豊富な木材は、鉄砲堰などの技術を使って奥山から川の流れを使って搬出され、流れがゆるやかになるこの広い川原で筏に組まれて江戸へ向かいました。鉱山事業に失敗した平賀源内も、ここで木炭を運び出す荒川通船の事業を起こしました。
近くにある秩父鉄道の終点「三峰口駅」は、秩父盆地の終点でもあります。ここから奥は、険しい秩父帯・四万十帯の地形となり、鉄道は入れないのです。秩父鉱山の鉱石は、両神山の北を越え、山中地溝帯の谷を経て三峰口まで索道で運び出され、ここから鉄道に載せられていました。