秩父の人々の暮らしの歴史は、その時代時代で地域に活力を生んできた産業や、根付いた固有の文化に彩られてきました。いつの時代も変わらないのは、大地の恵みを享受し、それを感謝し、大地とともに生きてきたということです。
秩父の里では、絹織物で発展した秩父夜祭の歴史を知り、奥秩父に目を移せば、秩父鉱山の貴重な鉱石の輝きに魅せられた平賀源内の挑戦を知ることができます。それもこれも、大地の物語とは切っても切れないものであることに、きっと気がつくはずです。
あの名所も、この食べ物も実はこれもジオだった!そんな驚きを、秩父の地でたくさん探してみましょう!
秩父の人気ビューポイントである秩父公園橋がかかる荒川は、奥秩父の起点から東京湾河口まで173kmもの距離を旅する川です。橋から秩父駅に至るまっすぐの大通りを眺めると、坂が何段も連なっているのがよくわかります。秩父の階段状の街並みは、大地の隆起とともに荒川の流れが長い長い時間をかけて削ってつくったものです。このようにできた地形を「河成段丘(かせいだんきゅう)」といいます。
街なかに連続する坂や崖は、その時代ごとに川の流れが刻みこんでできたもので、「段丘崖(だんきゅうがい)」といい、その間の平らな面を「段丘面」といいます。現在の荒川に近くなるほど新しい段丘面で、現在の市街地があるあたりは、約7万年以降に川原であった場所と考えられています。
西武秩父駅から徒歩20分の距離にある羊山公園は、ソメイヨシノやしだれ桜の名所で、「芝桜の丘」があることで有名です。この公園のある羊山丘陵も、約13万年前は川原だったところで、「中位段丘」といいます。見晴しの丘からは街なかを一望でき、荒川を挟んだ西側には、秩父ミューズパークがある長尾根を望むことができます。
★芝桜観光トイレ付近にジオ解説看板(駐車場側の面)があるのでぜひご覧ください!
プールやテニスコート、コテージや野外ステージ、展望台など様々な施設がある市民憩いの場、「秩父ミューズパーク」にも行ってみましょう。広々とした公園でとっても気持ちがいいところです。ここは昔から、文字通り長い尾根だから「長尾根」と呼ばれています。山の上なのに不思議なほど平らになっていますが、その理由は、約50万年前にはこの尾根が川原だったからなのです。ここは秩父盆地にある河成段丘のうち一番古い時代につくられたところで一番標高が高く、「高位段丘」といいます。
昔から、秩父は稲作に向かない土地でした。山あいで平地が少ないこともありますが、秩父盆地の中は荒川の流れがつくった河成段丘の段丘面の上にあり、ここはかつての川原の堆積物である小石が多くて水が浸透してしまい、さらに傾斜地も多かったため、限られた場所でしか水耕ができなかったのです。
米が作れない土地では収穫高の多い果樹や茶の生産を行うところもありますが、秩父は寒冷地で適しません。そこで植えられたのは「桑」です。桑は、湿地を嫌い、寒冷地や山地の痩せ地でもよく育つ植物で、蚕のエサとなります。蚕がつくる繭は、絹糸の原料です。絹織物は価値も高く、江戸時代以降、金納による年貢を担うための重要な産業になります。秩父で養蚕が盛んになったのは必然のことだったのです。
江戸時代中期には秩父神社周辺で絹織物の大きな市が立つようになりました。「絹大市(きぬのたかまち)」と呼ばれ、秩父の経済を潤してきました。「お蚕まつり」とも呼ばれる秩父夜祭の発展は、絹織物の繁栄とともにあったことは有名な話です。
ユネスコ無形文化遺産にもなった秩父夜祭では、6台の絢爛豪華な笠鉾・屋台が街なかを曳き廻されます。クライマックスは、12月3日の夜に行われる御旅所(おたびしょ)手前の急坂「団子坂」の曳き上げ。この坂はもともと崖であり、約3~4万年前に川の流れがつくったと考えられる段丘崖です。
ちなみに、山車巡行や御神幸行列の目的地である御旅所のことを、お祭り関係者は単に「お山」といいます。笠鉾や屋台は、神様が伝説の「蓬莱山」(=御旅所)を目指して航行していく乗り物だとも言われており、「お山」という言葉はここからきているのです。山車に乗る囃子手の掛け声「ホーリャイ(ホーライ)」も、この蓬莱山からきています。御旅所は実際には山とは言えませんが、秩父神社がある段丘面から一つ上の段丘面にあることから、蓬莱山になぞらえてこのような表現をしているのだと考えられます。
冬の秩父夜祭と対をなす秩父神社の夏のお祭り、「秩父川瀬祭」では、夜祭とは逆に、山車や御神幸行列は段丘を下へ下へと下りていきます。行列の目的地は、お祭りで最も重要な「神輿洗いの儀」を行う荒川の川原。ここでもやはり、河成段丘が作った地形でお祭りの形が成り立っています。
明治時代の地図をみると、秩父盆地の中は田んぼが少なく畑ばかりです。江戸時代、米の取れないこの地方では年貢を米で納めることができず、作物などをお金に換算して納める「金納」でした。
荒川や赤平川は今でも深いところを流れ、用水もポンプも無かった時代、段丘の上では長い間、川の水を利用するのに苦労をしていました。また、水の便が悪いばかりでなく、昔、川原だった段丘面は礫が多く、水田に適した泥質地が少なかったのも理由です。
秩父盆地の中でわずかに田んぼがあったのは、数少ない泥質地のうち、上流の沢の水を引いた横瀬町の寺坂棚田や、谷の水をせきとめた「姿の池」(羊山公園にある貯水池)、段丘崖の湧き水を利用した細長い田んぼが点々としているのみでした。
秩父の蒔田地区と太田地区では、川が浅いところを流れています。もともとこの地には荒川や赤平川の支流が流れていましたが、本流が深いところを流れるようになると上流が本流から切断され、その後浸食を受けずに済んだのです。上流から砂利が流れこまなくなったため泥質の土地となり、川が浅いので水利もよく、谷をせき止めてため池がつくられたこともあり、蒔田と太田はその地名のとおり古くから米どころでした。
米の取れた蒔田の谷には、国指定重要文化財の内田家住宅や通り門のある大きな農家、名刹の円福寺などがあり、この地が豊かであったことが偲ばれます。また、上蒔田の椋神社では稲の豊作を祈願する「御田植祭」が行われます。太田には高札場があって、藩が重要視していたことが伺えます。
秩父には、「嫁に行くなら太田か蒔田」という言葉も伝わっているぐらいです。
大田小・中学校の前には、日本で初めて帝王切開の手術を行った医師「伊古田純道」の碑や、近くには森鴎外の「舞姫」の主人公のモデルといわれる医師「武島務」のお墓があります。米どころ太田の安定した経済により、著名なお医者さんを輩出できたのでしょうか・・・。
教科書にも出てくるエレキテルで有名な江戸時代の発明家、平賀源内は、明和2年(1765年)に初めて奥秩父の地を踏みます。燃えない布「火浣府(かかんふ)」の原料となる石綿(アスベスト)を求めて中津川を訪れたのですが、そのときに、当地の金山開発に着目します。
もともと秩父の鉱山開発は、武田信玄が滅んだ後に甲州からやってきた金山衆(鉱山技術者集団)が金の採集を行ったことに始まると伝えられています。史実に記録されているものでは、江戸時代初期に金の富鉱体(価値の高い鉱床)が発見に成功しますが、その後地下水で湛水してしまって断念してしまいます。その130年後、排水工事を試みますがやはり失敗に終わっています。源内がやってきたのは、その失敗から25年後のことでした。
源内は中津川に在住して金山の再興を試みますが、残念ながら金の富鉱体にあたらず、金山は閉山してしまいます。そこで今度は鉄山の開発に移りますが、こちらも時勢に翻弄され突如休山。やむなく鉄山からも手を引くことになってしまいます。
併行して運搬のための馬道やその先の舟運を整備していた源内、今度は三峰口(現在の秩父鉄道「三峰口駅」周辺)で木炭を江戸まで出荷する通商事業(秩父通船)に乗り出します。こちらは大成功!事業は源内が亡くなるまで続けられ、その後は久那村(現在の秩父市久那)の名主へ引き継がれていきました。
ちなみに鉱山開発はその後、中津川村民が担っていくことになり、銀や鉛などの採掘が明治の初めまで続きました。明治の終わりになると、近代鉱業の幕開けとなります。
秩父は昔から米作に向かない土地でした。山間では田んぼができる広い土地もなく、盆地内でも、大昔に川が流れていた段丘の上は石が多く、さらに用水路もなかった時代は水田に水を引くこともできないところが多かったからです。
川が深いところを流れる盆地内は水はけが良く、土壌も乾燥しています。また、一日の寒暖の差や夏期と冬期の気温差が大きい盆地特有の気候の下にあります。山に囲まれた秩父盆地と川が刻んだ河成段丘の地形が生み出したこのような条件は、実はそばの栽培にはうってつけなのです。さらに、荒川の源流を抱く秩父の水でお蕎麦を打つと、そばが強く、のど越しのよいお蕎麦になるといわれています。
昔は秩父一帯に桑畑が広がっていました。絹織物の価格低迷で養蚕農家が少なくなり、桑畑はそば畑として生まれ変わったのです。今では秩父地域全体でお蕎麦屋さんが増え、秩父名物の郷土食となりました。6月(春そば)、9月(秋そば)に白い花が一面に広がるそば畑も、今や秩父を代表する風景の一つになっています。
中生代に生まれた硬い秩父帯・四万十帯の地層(約2億年前~約7000万年前)が広がる奥秩父には、長い時間をかけて川に浸食された険しい山々が連なっています。スギやヒノキなどの植林ができなかった急傾斜には手つかずの天然林が多く残り、土壌の乾湿状態、標高などの諸条件によりモミ、シラビソ、ツガ、天然ヒノキ、イヌブナ、ブナ、シオジ、サワグルミなどが分布しています。中でもカバノキやカエデは紅葉の時期になると急峻な山々を錦に染め、訪れる人の目を愉しませています。
近年、秩父地域ではカエデを活用する取り組みが広がり、カエデの樹液は、煮詰めるとメープルシロップになります。この国産メープルシロップを使っての新たな特産品のお菓子や飲み物などの製品が開発され、「伐らない林業」として注目を集めています。また、スギ、ヒノキを伐った山にカエデを植える取り組みも進んでいます。
秩父鉄道「三峰口」から徒歩5分のところにある白川橋の上から見た荒川の上流と下流では、まったく景色が変わります。この周辺は秩父山地と盆地の境で、橋の上流側は約2億年~1.5億年前の「秩父帯」と呼ばれる硬い地層が広がり、下流側は約1700~1500万年前の秩父にあった海「古秩父湾」の時代、海底に堆積した柔らかい地層が広がっています。荒川の流れに削られて硬い地層ではV字谷が、柔らかい地層では「河成段丘」を形づくりました。
大昔、この周辺は「古秩父湾」の海岸だったのです。古秩父湾では、埼玉の奇獣「パレオパラドキシア」や秩父で発見された新種の「チチブクジラ」などの大型の海獣や魚が悠々と泳ぎ、豊かな海の営みがありました。
「あちゃむしだんべにつるし柿っとぉ、コラショ」 秩父音頭の合いの手にも出てくる秩父名物「つるし柿」(干し柿)。秩父盆地の中の二大河川である荒川と赤平川は深いところを流れ、かつての川原であった段丘面は乾燥しています。南に高い山が連なり、北に開けた秩父盆地は寒風が吹き込みます。乾燥した寒い土地を秩父では「空凍み(からっちみ)」といってきました。
秩父盆地では、柿をひもにつけて軒下に吊るしておくだけでつるし柿ができますが、盆地の外の温かく湿気がある土地では、カビが生え熟して落ちてしまいます。つるし柿はこの「空凍み」が生んだ食べ物で、昔から秩父夜祭の夜店の店頭に並んでにぎやかに彩ります。